みずたま

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努力ができるかどうかは才能なのか

努力が苦手なのではない努力する対象を間違えているのだ!

 

努力ができることも才能の1つ。そんな意見をよく聞きますよね。本当にそうなんでしょうか。

 

確かに努力が得意な人と不得意な人がいますよね。実は僕は努力が大の苦手です。

 

もし努力が才能だとすると生まれつき足が早い人と遅い人がいるのと同じように努力もできる人とできない人が生まれつきいるのではないか。そんなふうに考えてしまいますよね。

 

例えば生まれつきものすごく足の遅い人。その人がオリンピックの選手を目指すのはあまり現実的とは言えませんよね。

 

ただいくつか文献を読んでいると努力と言うのは筋肉のようなもので鍛えれば発達する。そんな性質を持っていると言う研究があるみたいです。

 

生まれつきの才能も全く無関係ではないと思いますが鍛えられないものでもないと言う事は知っておくと良いでしょう。

 努力戦力の適正化

しかし先程も申し上げましたが僕は本当に努力が苦手です。これを克服できる気がしません。我慢と言うことができない。

 

しかし例えば人間関係のことで言えばとても寛容になれたりします。これも1種の忍耐力だとか意志の力の仲間ですよね。

 

だからもしかすると努力は才能と言うよりはその人の得意な分野であれば少し位辛くても頑張れる。そういう仕組みなんじゃないでしょうか。

 

つまり英語の努力の才能がある人。その人が数学の努力の才能も持ち合わせているとは限らない。そんなイメージです。

 

ある程度好きと言う感覚がないと努力できないのではないかと僕は思います。で好きなだけでは足りなくてある程度得意と言う感覚もないと努力ができないのだと思います。

 

結局のところ長所は短所を凌駕するので好きでかつ得意なこと。その分野で一生懸命に努力すればおのずと結果が出る。そう考えればいいだけじゃないでしょうか。

 

ですからもしなかなか英語の努力ができない。と悩んでいたらそれは英語に関して頑張るべきではないということを意味しているんだと思います。英語がきっと好きでかつ得意な分野でないから努力の対象になっていない。

 

努力の才能がないわけじゃなくて努力する対象が間違っている。そう考えると勉強がうまくいかないときに無理に勉強で成功しようと考えるよりも好きでかつ得意な分野で成功しようと考える方が合理的ですよね。

 

だってそういう領域であれば努力ができて競争に勝てるわけですから。

 

まとめ

 

努力ができるかどうかは何について努力するかにかかっている。好きでかつ得意なことに関してならば、ある程度我慢できる。努力そのものができるかできるかと言うよりも努力の対象を何にするか。そうした選択と集中つまり戦略が大事なんだ。

 

そう考えてみると肩の力を抜いてなんとなく少し頑張るだけで結果が出る分野を探すこと。それこそが努力すると言う言葉の真意なのだと思います。

 

努力が苦手なのではない努力する対象を間違えているのだ。

 

努力不要論

努力不要論